毎月1日に更新される掲示伝道法語を解説しています

令和6(2024)年 4月度

 

花まつり(お釈迦様の誕生日)が近づくと、仏教の原点に立ち返りたくなりますが、没後2500年も経つといろんな解釈が生れ、いったい何が仏教なのか、訳が分からなくなることがあるんです。。。宗派の特殊な解釈にがんじがらめになり、木を見て森が見えなくなる、といいますか。

 

掲げた文言は『法句経』というもっとも古い部類の経典で、お釈迦様の直の説法に近いと言われています。

 

お釈迦様は「私は説法したけど、その教えを実践するかしないかは、あなた次第だよ」、と言われているのです。

 

最近の浄土真宗では「そのまま・このまま・あるがまま」という言葉が流行っているようですが、私はこういう生温い感覚は仏教ではないと考えます。

念仏せよ、と説かれたら念仏しないといけないし、仏法を聴聞しなさい、といわれたら聴聞に励まねばならんでしょう?往生の要件にはならないけれども「実践行(practice)」は不可欠です。

 

何もしないで救われる、じっとしていたらやがて悩みが晴れる、そんな横着なことをお釈迦様が説くはずがありません。

 

とりあえず、寺から行事の案内が来ればお参りに来る、立派な実践行です!

 

※今月の書は長男の字です。6年生になりました。卯の花の写真を見て書いておりました。。。それが書、というものです。習字とは違うのです。

 

令和6(2024)年3月度

 

卒業・入学・入社のシーズンを控え人間関係が大きく変化し、精神的に不安定になる時節のようです。周りの人が優秀・幸せそうに映り(実際はそうでもないのだが)、自分に自信が持てなくなるようになります。

「あなたが誰かをうらやましい」と思うのと同じように、「誰かがあなたのことをうらやましい」、と思っているはずです。

4月8日はおしゃか様の誕生を祝う花まつりです。

おしゃか様は誕生時に「天上天下唯我独尊」と宣言されましたが、俺だけが尊いではなくて、ひとりひとりの「我;われ」がそれぞれに尊いことを悟ったという意味です。

 

仏法を拠り所にして自分の中の「独尊」を見つけていくのが人生の営み、ということです。人のことをうらやんだり、批評したりするのは時間と労力の無駄だ、とはっきり申し上げておきましょう。

 

【桜咲く】は次男の書。受験生は合格を目指して精進してくださいね。

 

令和6(2024)年2月度

 

節分、といえば「鬼」ですが、退散させるのはちょっと都合がわるいですよ……というお話。

 

今月は親鸞聖人の『浄土和讃』を紹介いたします。

 

仏教では弥陀一仏といった一神教的な立場と、神々・鬼・諸仏・菩薩の登場を説き、多神教的な一面も持ちます。古代ローマにギリシャやインド、そして日本ではその民族性の故か、多神教的(重層信仰)な特徴があります。

 

天神とは梵天・帝釈天など、地祇とは八大龍王・天邪鬼・夜叉等々、聞いたことのある名前ばかりでしょう。天邪鬼(あまのじゃく)は本願寺にもいますよ! 鬼は勝手に悪者扱いされていますが、鬼も神々のひとつです。 

私たち念仏者はすでに阿弥陀如来の守護に預かっています。鬼も阿弥陀如来を敬いますから、如来の救いの対象たる私たちも鬼に敬われ守護されるのです。鬼が怒るのは私たちに危害を与えんとする邪悪な外道に対してです。そこを勘違いしてはならんのです。

 

これは浄土真宗の大きなご利益(冥衆護持)のひとつと言えましょう。

屋根には家を守るために鬼瓦を据えますが、これを厄介だと豆を投げる者はいないでしょう。家を守るのが鬼ですから。そもそも豆は食べ物ですから、まいたりぶつけたり子どものオモチャにするものではありませんよ。鬼は逃がしてはなりません。

 

小5の愚息は【鬼も友達】と申しております。皆さんもお念仏を大切に称え、信心の人となり、鬼の認識を改めてくださいませ。

 

蛇足ながら今、本願寺では【新しい領解文】をめぐって大変揺れ動いています。情けない話ですが、親鸞聖人の教えを捻じ曲げる外道どもが、やりたい放題しております。近い内に鬼の鉄拳を受けることでしょうな、知らんけど。 

 

  令和6(2024)年1月度

 

新年明けましておめでとうございます。

多くの人々が神社であろうが寺院であろうが初詣にて「願い事を叶えてもらう」ことに主眼を置いておられることでしょう。・・・ところで昨年の願い事は叶いましたか?

 

誰かに願いを叶えてもらうことよりも、自分で動いた方が早いって話をしたいと思います。また、願いが叶うか叶わないよりも、目標に向かって一歩でも近づいているか否かを問題にすべきです。

 

仏教には【身・口・意(しんくい)の三業】という概念があります。


【行動・言葉・思い】と言ってもよいでしょう。願い事は「意」に該当しますが、自分が楽することばかりを考えがち。

 

何かを実現したいのならば「強く願い、思いを言葉にし、何かを始める」、この3点セットが必要です。法蔵菩薩の本願はこの三業が成就して阿弥陀如来となったのです。

思いが浮かんだら、すぐに何かを始めましょう。年齢は関係ありません。

「今年こそは、今こそは!」、と。

 

★左の書は次男(小3)の手によります。

 

【令和5(2023)年12月度】

 

平成30年度の内閣府調査では「自分に満足」という人の比率は、欧米諸国で80%台なのに対して日本では40%台、「自分には長所がある」という人の比率も前者で90%前後なのに対して後者は60%程度となっているそうな。

 

浄土真宗の教えを聞きすぎると(?!)自己肯定感を下げて、無気力無個性な人間を作る傾向がある。この傾向は何とかしなくてはならない、と思う。

 

ともあれ今年も1年頑張ってきたんだから、人への感謝云々よりも頑張ってきた自分を褒めてあげてください。ズボラで通した人は自分を律してください。人が、ではなく「私が生きる道」を示すのが仏教ですからね・・・。

 

★左の書は長男(小5)の手によります。

 

 

【令和6(2023)年11月度】

 

仏に限らず、仏様へのお参りの動機といえば「願い事をかなえてほしい」が圧倒的だろうと思います。

逆に言えば、「では一体、何のためにお参りするの?」と聞かれかねません。


願いが叶えば、あそこのお寺・神社は「功徳がある」とされ、叶わなければ
「効き目がない」と見下されます。

 

自分の願い通りになる世界は、独裁者の世界です。

人間の愚かさに気付かされることがお念仏の功徳です。

 

愚かな私に気付き、有頂天になるところでした。こんな私をお救いくださりありがとうございました、と感謝するのが浄土真宗の世界観です。

 

いよいよ11月12日(日)は真光寺の親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要が勤まります。こぞってご参詣くださいますよう。

豪華記念品をご用意してございます!!

令和5(2023)年 10月度

 

元の言葉は【仏の顔も三度(まで)】です。

温厚な人でも、何度も無礼なことをされれば怒り出すという意味ですね。

 

これはお釈迦様が故郷に恨みを持った隣国の王子を説得して三度食い止めたが、四度目は説得するのを止めた、という逸話に基づきます。

 

しかし本当のところ、仏様は広い心の持ち主なので怒り狂うことはないでしょう。しかし、その代わりに深く“悲しまれる”でしょう。

 

実は相手を怒らすよりも、悲しませることの方が事態としては大きいです。

 

『歎異抄』に「薬あればとて毒を好むべからず」という言葉と類似しますが、

この言葉は「何をしてもよい」という意味ではありません。

私たちの非礼・無礼を上回る、仏様の慈悲心を讃えているのです。

 

 

令和5(2023)年 9月度

  

本願寺第8代蓮如上人は『御文章(御文)』以外に「御詠歌」を多数遺されています。

 

俳句のように花鳥風月を愛でるでなく、仏法愛楽が主となっています。

 

蓮如上人は500年以上前に84歳まで生き抜かれましたが、意外にも「お釈迦様よりも長生きしてしまって・・・」と感傷に浸る表現が目立ちます。

 

敬老の日で祝ってもらっても、老いの只中に居る人からは愁嘆の声が漏れ聞こえます。

 

将来の社会保障費減額を見据え「長生きするリスク」なる言葉も出てきました。  

浄土を願うことが、人生の闇夜の光となられんことを。お彼岸とは故人を通じて私のいのちの往き先を見定める「仏教ウィーク」です。

令和5(2023)年 8月度


仏教では思い込みのことを「分別;ふんべつ」といい、自己中心性の迷いと捉えます。

 

自分が行き詰った時には、周りの声が聞こえなくなって自分は正しいに違いない、社会がおかしいんだ、と考えるようになります。無差別殺傷事件などの根はこういう点にあると思います。

 

昨今、衣食が足りていても、生きづらさを訴える人が増えています。

自分の考えは絶対ではなく、柔軟に他者の意見に耳を傾けて、自分の分別心を溶かす試みを為すべきだと思います。

 

あなたに悪意を抱く人は、いかなる助言も致しません。助言を得たならば有難く拝聴すべきです。

令和5(2023)年 7月度

 

ハスは古来より仏の教えを象徴する花です。

根は泥にあっても、美しい色の花を咲かせること、不思議としか言いようがありません。

 

煩悩の私たちが、阿弥陀如来の本願力によって無上涅槃の妙果を得ることも不思議が中の不思議、奇縁中の奇縁なのです。

 

それに気付け、とハスは咲く。

 

 

 

令和5(2023)年 6月度

 

 

 

陸上競技ではハードルは意図的に倒すと失格になるそう。つまり少しなら倒しても“よい”のだ。

 

 

転じて人生には様々なハードルがやってきます。飛び越えられなければ「くぐる・よける・持ち上げる・蹴とばす等」の方法があります。

 

 

 

人生には「失格」はありませんので、柔軟な心で様々な方法を試みればよいのです。

 

令和5(2023)年 5月度

親鸞聖人著『教行信証』後序より

 

人生は浮草のように確たる居場所がありません。しかし阿弥陀如来の御心を大地に見立て、そこで強い根を張り、確かな花を咲かせることが出来ます。

 

「念(おもい)を難思の法海に流す」とは前半とは逆に、執着を離れた大らかな心を表します。

 

倫理や道徳で人は救われません。親鸞聖人を介して聞く阿弥陀如来の御心は今なお褪せることのない輝きを放っているように思うのです。

 

令和5(2023)年 4月度

おしゃか様の遺言に【自灯明・法灯明】とあります。自らをよりどころとし、法(真理)をよりどころとせよ、とあります。臨終まで「不確かな私たち」ですが、その私を支えてくれるものは「確かな法」です。

 

私たちは民族性もあってか自分で物事を決められず、周囲の顔色・出方を見て判断することが多いものです。正しくないと思っていても、長いものには巻かれろ、と教えられますが、それって苦しくないですか?

 

また【サイの角のようにただ独り歩め】という言葉もあります。・・・独りよがりがいい、という意味ではありません。 

 法を人生の拠り所にして自省すべきは反省。どうせ短い人生、自分の好きに生きたらエエねん、と領解します。仏教に親しみ自分自身を解放してください。人に振り回される人生はつまらないですからねぇ。

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