毎月1日に更新される掲示伝道法語を解説しています

平成30年度の内閣府調査では「自分に満足」という人の比率は、欧米諸国で80%台なのに対して日本では40%台、「自分には長所がある」という人の比率も前者で90%前後なのに対して後者は60%程度となっているそうな。

 

浄土真宗の教えを聞きすぎると(?!)自己肯定感を下げて、無気力無個性な人間を作る傾向がある。この傾向は何とかしなくてはならない、と思う。

 

ともあれ今年も1年頑張ってきたんだから、人への感謝云々よりも頑張ってきた自分を褒めてあげてください。ズボラで通した人は自分を律してください。人が、ではなく「私が生きる道」を示すのが仏教ですからね・・・。

 

★左の書は長男(小5)の手によります。

 

 

念仏に限らず、仏様へのお参りの動機といえば「願い事をかなえてほしい」が圧倒的だろうと思います。

逆に言えば、「では一体、何のためにお参りするの?」と聞かれかねません。


願いが叶えば、あそこのお寺・神社は「功徳がある」とされ、叶わなければ
「効き目がない」と見下されます。

 

自分の願い通りになる世界は、独裁者の世界です。

人間の愚かさに気付かされることがお念仏の功徳です。

 

愚かな私に気付き、有頂天になるところでした。こんな私をお救いくださりありがとうございました、と感謝するのが浄土真宗の世界観です。

 

いよいよ11月12日(日)は真光寺の親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要が勤まります。こぞってご参詣くださいますよう。

豪華記念品をご用意してございます!!

令和5(2023)年 10月度

 

元の言葉は【仏の顔も三度(まで)】です。

温厚な人でも、何度も無礼なことをされれば怒り出すという意味ですね。

 

これはお釈迦様が故郷に恨みを持った隣国の王子を説得して三度食い止めたが、四度目は説得するのを止めた、という逸話に基づきます。

 

しかし本当のところ、仏様は広い心の持ち主なので怒り狂うことはないでしょう。しかし、その代わりに深く“悲しまれる”でしょう。

 

実は相手を怒らすよりも、悲しませることの方が事態としては大きいです。

 

『歎異抄』に「薬あればとて毒を好むべからず」という言葉と類似しますが、

この言葉は「何をしてもよい」という意味ではありません。

私たちの非礼・無礼を上回る、仏様の慈悲心を讃えているのです。

 

 

令和5(2023)年 9月度

  

本願寺第8代蓮如上人は『御文章(御文)』以外に「御詠歌」を多数遺されています。

 

俳句のように花鳥風月を愛でるでなく、仏法愛楽が主となっています。

 

蓮如上人は500年以上前に84歳まで生き抜かれましたが、意外にも「お釈迦様よりも長生きしてしまって・・・」と感傷に浸る表現が目立ちます。

 

敬老の日で祝ってもらっても、老いの只中に居る人からは愁嘆の声が漏れ聞こえます。

 

将来の社会保障費減額を見据え「長生きするリスク」なる言葉も出てきました。  

浄土を願うことが、人生の闇夜の光となられんことを。お彼岸とは故人を通じて私のいのちの往き先を見定める「仏教ウィーク」です。

令和5(2023)年 8月度


仏教では思い込みのことを「分別;ふんべつ」といい、自己中心性の迷いと捉えます。

 

自分が行き詰った時には、周りの声が聞こえなくなって自分は正しいに違いない、社会がおかしいんだ、と考えるようになります。無差別殺傷事件などの根はこういう点にあると思います。

 

昨今、衣食が足りていても、生きづらさを訴える人が増えています。

自分の考えは絶対ではなく、柔軟に他者の意見に耳を傾けて、自分の分別心を溶かす試みを為すべきだと思います。

 

あなたに悪意を抱く人は、いかなる助言も致しません。助言を得たならば有難く拝聴すべきです。

令和5(2023)年 7月度

 

ハスは古来より仏の教えを象徴する花です。

根は泥にあっても、美しい色の花を咲かせること、不思議としか言いようがありません。

 

煩悩の私たちが、阿弥陀如来の本願力によって無上涅槃の妙果を得ることも不思議が中の不思議、奇縁中の奇縁なのです。

 

それに気付け、とハスは咲く。

 

 

 

令和5(2023)年 6月度

 

 

 

陸上競技ではハードルは意図的に倒すと失格になるそう。つまり少しなら倒しても“よい”のだ。

 

 

転じて人生には様々なハードルがやってきます。飛び越えられなければ「くぐる・よける・持ち上げる・蹴とばす等」の方法があります。

 

 

 

人生には「失格」はありませんので、柔軟な心で様々な方法を試みればよいのです。

 

令和5(2023)年 5月度

親鸞聖人著『教行信証』後序より

 

人生は浮草のように確たる居場所がありません。しかし阿弥陀如来の御心を大地に見立て、そこで強い根を張り、確かな花を咲かせることが出来ます。

 

「念(おもい)を難思の法海に流す」とは前半とは逆に、執着を離れた大らかな心を表します。

 

倫理や道徳で人は救われません。親鸞聖人を介して聞く阿弥陀如来の御心は今なお褪せることのない輝きを放っているように思うのです。

 

令和5(2023)年 4月度

おしゃか様の遺言に【自灯明・法灯明】とあります。自らをよりどころとし、法(真理)をよりどころとせよ、とあります。臨終まで「不確かな私たち」ですが、その私を支えてくれるものは「確かな法」です。

 

私たちは民族性もあってか自分で物事を決められず、周囲の顔色・出方を見て判断することが多いものです。正しくないと思っていても、長いものには巻かれろ、と教えられますが、それって苦しくないですか?

 

また【サイの角のようにただ独り歩め】という言葉もあります。・・・独りよがりがいい、という意味ではありません。 

 法を人生の拠り所にして自省すべきは反省。どうせ短い人生、自分の好きに生きたらエエねん、と領解します。仏教に親しみ自分自身を解放してください。人に振り回される人生はつまらないですからねぇ。

令和5(2023)年 3月度

 

 

卒業・入学・入社・退社を控え、新しい環境に身を置く方もおられるでしょう。

 

「これから」は未来、

「これまで」は過去。

 

過去の事象は変えられませんが、これからの生き方次第で過去の意味は変えることが出来ます。

 

過去とは懸命に生きてきた証です。

 

今まで成し遂げてきたことに誇りを持って、新しい世界でご活躍頂きたいものです。 

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